「私が泣いた時」の話を聞かせてください(悲しいこと 嬉しいこと 何でもOK)(くれたけ#240)
まだ20代の頃のことです。
その瞬間はふいに訪れました。
何か特別なことをしていたわけではないのですが
ふと、自分の人生は自分で決めて自由に生きれる…生きてもいいという感覚が湧いてきました。
それまでの人生を思い返して
誰かに何かを制限されたわけでもないし
家族にも恵まれ円満で幸せに育てて貰って感謝もしていましたし
進路も習い事も友達も自分で決めてきたつもりです。
ただ、どこかで自分の回りには飛び越えようと思えばピョンといけるけれど
向こう側へは行ってはいけない透明な柵があるように感じていました。
柵の中に居れば安全で守って貰えて
何かあった時にすぐに誰かが助けに来てくれる。
柵から一度出てしまったらもう戻っては来られないし
吹き曝しの雨風の中も一人生きていかなくてはならないと怯えていました。
柵さえ飛び越えなければ他は何をしても自由で快適に過ごせる
その一方で向こう側で生きている人たちがのびのびと楽しそうに両手を広げているのを見て
成長と共に羨ましく感じるようになっていきました。
私も柵の向こう側へ行って一緒に両手を広げてみたい。
都合がいいかも知れないけれど、柵の向こうとこちら側を行き来してもいいじゃないか。
そんな風に感じるようになりました。
ただ、ずっと勇気がわきませんでした。
もし、万が一戻れなかったら…
そのまま柵の外側から今まで生まれ育った快適な場所を見るだけになってしまったら
とてもとても後悔しても、しきれなくなるだろうという恐怖の方が勝っていました。
だから私は絶対に柵の内側から出ないように
ギリギリのところまで行ってそれで満足しておこうと決めていました。
10代後半のことでした。
今だったら乗り越えてしまってもいいかも知れない
そんな風に思える瞬間が幾度かありましたが、やはり勇気がわきませんでした。
戻れなくなるかもしれないという恐怖と
今まで築き上げてきた私が全て無くなってしまうような感覚がプラスされました。
私が私でなくなったら私に残るのは一体何だろう?
そもそもそれは私なのだろうか?
私ってなに?
そもそも、この透明な柵は誰がここに作ったの?
本当にここに柵は存在するの?
向こう側の人たち一人一人の回りに柵はあるの?
あるとしたら、私は柵の向こう側の人になるの?
そんなことをぐるぐると考えた時期がありました。
しかし、答えは出ず、あまりに漠然としすぎて誰かに話すこともできず
結局最後には柵の中での生活を続けようというところに辿り着きました。
20代になり柵のことなんてすっかり忘れて日々目の前にあることに追われる生活。
ある夜、布団に入り眠りにつくまでウトウトとその日を思い返していると
その頃読んでいたアドラーの本の一文が出てきました。
「自分が自分のために自分の人生を生きていないのであれば、いったい誰が自分のために生きてくれるだろうか」
ユダヤの教えなのですがアドラーの本で紹介されていて何故かとても印象に残っていました。
私の中でこの言葉と透明な柵が繋がって
あぁ、そういうことだったのかと涙が溢れました。
嬉しいやら、寂しいやら、安心感に不安感。
多分それまでの人生で抱いた事のある感情が一気にぶわ~っと出てきたような
後にも先にもこの感覚はたった一度のような何とも言えない感覚でした。
あの時、私は私のことを解放したんだと思います。
ずっとずっと小さい頃から作り作られ続けてきた柵を認めて赦して
もう、なくても大丈夫なんだと認識したんだとも思います。
そして何より、もう柵は作らなくていいし、作る必要もないのだとも。
ただ、人生を重ねて守るものが増えて
時々うっかり無意識に柵を作ってしまいそうになる時があります。
そういう時は「あ~そうねそうね」と作りたくなってしまう自分をケアするようにしています。
私が泣いたときの話。
最後まで読んで頂きありがとうございました。
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